北海道食べたいログ

北海道出身・在住の新米主婦の食べ歩き旅行ブログです。思い出したときに綴っているので、時系列はバラバラです。

【看護学生】成人看護学 レポート「死生観について」

 

こんにちは、びびです

今回は、成人看護学で死についてグループワーク後のレポートです

 

レポート

 班員との話し合いにおいては、死を恐れる理由として「自分の存在が忘れられてしまう」ことが一番に上がった。また、「死後、自分はどうなるのかわからない」ということも挙がった。

 私自身「死」は恐ろしく、尊くもある。小学生の頃、祖父の詩を目の当たりにし、死後自分はどうなるのか、痛みを感じたまま死ぬのかと怯えた記憶がある。一方で、この世を去った祖父が「天国から見守ってくれている」というように、死に対して肯定的に受け止めていた。恐怖と希望、背反する二つを与える「死」とは一体なんなのか。

 人が「死ぬ」ということは、どういうことなのか。まず、死を恐れる理由として挙げられたように、身体的な「死」だけではなく、人々の記憶から消えるという精神的・霊的な「死」があるのでないか。班員との話し合いで挙がったように、死後は生まれ変わる、思い出として生きる、魂はこの世に残り続ける、天国にいくなど、「死」に対して恐怖感を抱いているからこそ、死後は「無」になるのではなく、何かの形で自分の存在は残り続けると思うことで、「死」に対する恐怖を取り除いていると考える。

 私自身は、「死」に対して希望よりも恐怖の方が強い。私は、大切な人に囲まれて逝きたいと思っている。それは、残された家族に、私の「死」を受け止めて欲しいからだ。死の瞬間に立ち会うことで、私という存在が死んだということをより実感する。残された家族が私の死に囚われずに前に向かって進んで欲しいと思うからだ。

 より良く生きるためには、看護者としてどういうケアをする必要があるのか。ここで、余命告知を患者本人にするべきかという問題が生じる。班員との話し合いにおいて、余命告知をし、患者本人に残りの人生をどう生きたいか希望を聞くことが必要だという意見が出た。「死」がどういうものか「わからない」ということに対し、最も恐怖を抱いているだろう。病名を告げられていなくても、患者は自らの肉体の限界を次第に悟っていくだろう。どうして自分は死に向かっているのか「わからない」という恐怖を抱きながら死ぬことは非常につらいことだと思う。患者には知る権利がある。知ることで、患者とその家族はつらい思いをすることになるかもしれないが、事実を伝えずにいることは善いことなのだろうか。

 私自身、今まで「死」に対して恐怖を抱いてきた。しかし、人はいつか必ず「死」を迎えると思うと、どう生きてどういう死を選ぶかということも患者の権利であると感じた。

 患者が延命を望むか、安楽な死を迎えたいか、どう選ぶかは患者自身が選択しなくてはいけない。看護者が「延命治療をして苦しんで死ぬよりは、自然に死ぬ方が人間らしい」などといった先入観をもってはいけないと感じた。どういう選択をしていくか本人と家族が十分に話し合って決定できるよう、看護者として支援していきたい。